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Kyoko Shimbun 2006.09.09 News |
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Q級戦犯・東条英畿:隠された昭和史
●生い立ち 東条英畿は1884年(明治17年)7月31日、東京市麹町区に生まれる。奇しくも後のA級戦犯・東条英機と同姓同名、誕生日まで同じという偶然が彼の人生を左右することになるが、このような数奇な運命をたどることを東条本人をはじめ日本人の誰一人として予想しなかったであろう。
この頃の英畿の趣味は、ラムネ瓶のビー玉集めで、飲み終わったラムネ瓶からビー玉を取り出してはズボンのポケットに入れるため、いつも彼が歩くとジャラジャラという音が絶えなかった。口さびしいときはビー玉を舐めたりしていたことから、「ビー玉大将」と同級生に揶揄(やゆ)されることもあった。 ●日露戦争 城北尋常中学校卒業後、英畿は一時消息不明になる。家族は捜索願を出すが、いっこうに見つからず、再び英畿が姿を現したのは、5年後の1904年、英畿20歳のことであった。この5年間について、英畿は終生語ろうとしなかったため、何があったのか、いまだに謎である。ある研究者は「共産主義に洗脳された」と語り、またある研究者は「仏門に入ろうとした」と語るが、これらは推測に過ぎない。ただ、あれほど大事にしていたビー玉に対する執着心は全くなくなっていた。 1904年は日露戦争が勃発した年でもある。当時、ボールペン工場でボールペンのキャップをはめる仕事をしていた英畿は、当時の日記にこのように記している。 「毎日ぼくはかうしてボウルペンシルのキヤツプをはめてばかりいる。ロシヤ兵の指にもこのキヤツプをはめてやりたい。」 これが、英畿が書いた日露戦争に対する唯一の感想である。日本全体がロシア憎しのムードに包まれていた中、英畿はほとんどこの問題に興味を示さなかった。 翌1905年に日露戦争は終結する。しかし、ロシアとの講和に反対する国民は講和反対国民大会を開き、これが日比谷焼き打ち事件に発展した。この焼き打ち事件で英畿の勤めていたボールペン工場は全焼。このことがきっかけで英畿は政治家になることを決意したという。 ●代議士への道 時は明治から大正に変わり、大正デモクラシー、軍縮時代を迎えた。この社会運動熱の中で、英畿は無所属候補として立候補。ボールペンの完全国産化を公約に掲げ、最下位ながらも当選。当選確実の報が翌日の朝刊に間に合わなかったため、当時の新聞に彼の名前が載ることはなかった。 その後、英畿はボールペン国産化の公約をまるで忘れたかのように惰眠をむさぼる毎日を送った。一度も議会に出席せず、平日は近所の子どもたちと野球に興じる姿を目撃されている。「ベーブルースの指にキャップをはめてやりたい」が口癖だったという。 当然ながら、英畿は次の総選挙で敗退。獲得投票総数2票は日本議会史のワースト記録である。 その後の英畿の動静は明らかではない。渡米説、共産スパイ説などがあるが、これらのいずれもが推測の域を出ない。この時期の日記としては、1931年6月14日のものが多少興味深い。 「宇都宮にて。どうやら、我国は戦争に向かひつつあるらしい。だが、断言してよいがこの戦争は負ける。ボウルペンシルすら国産化できない体たらく。」 ●終戦 社会が戦時体制へと動くなかでも、英畿の消息は全く不明である。徴兵記録もなく、日記にもこの時期のことはほとんど記されていない。戦時中の記録としては、1944年7月18日付の日記だけが残されている。 「神戸にて。ドロツプの缶にオハジキを入れて飴のやうに舐めている少女を見た。空腹なのだらう。だがあれはビー玉と同じで味はしない。」 英畿の名前が、歴史の表舞台に出るのは、太平洋戦争が終戦を迎えた1945年8月のことである。同月28日、たまたま英畿は占領軍のキャンプ近くを歩いていたらしい。連合軍の兵士に東条英機だと勘違いされた英畿は、片言の英語で「マイ・ネーム・イズ・ヒデキ・トウジョウ」と答えてしまったため、そのまま逮捕・連行されてしまった。 その後まもなく誤解が解けたが、その外見があまりに似ていたこと、名前や生年月日まで同じであったことなどを考慮した連合国軍司令部は、その後行なわれる予定の極東国際軍事裁判の予行演習の練習台として、英畿をそのまま拘禁した。 ●Q級戦犯 かくして「擬似東条英機」としての役割を与えられることになった英畿は、9月9日、「占領軍をぬか喜びさせた罪」を着せられた「Q級戦犯」として巣鴨プリズンに収監される。深夜になると、「東条役」として法廷に座らされた英畿は、連日にわたる起訴状朗読、弁護士や検察官のやりとり、尋問などを受けるうちに次第に自分が本当の東条英機であるという錯覚に陥ったようだ。 ●東条、自殺 同年9月11日、本物の東条英機が拳銃自殺を図る。 「公式」発表によると、東条の銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示のもと、米軍による手術と手厚い看護を受け、奇跡的に九死に一生を得、A級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部により逮捕されたことになっている。
では、極東国際軍事裁判に現れた「東条英機」とは一体何者だったのか。 「東条役」であった東条英畿についての記録は、Q級戦犯として起訴された9月9日の日記が最後である。 「今日いきなりMPがやつてきて、僕を『Q級戦犯』として起訴すると言ふ。外国の言葉はあまりよく分からないが、『占領軍をぬか喜びさせた罪』だと言ふ。きつと、何かの間違ひだらう。それにしても、今日はよい天気だ。」 なお、1948年12月23日、絞首刑に処された東条英機は、絞首台に連行される直前に、教誨師・花山信勝にラムネ瓶のビー玉を1つ手渡したと言う。
(*虚構新聞社出版部では、この「東条英畿日記」の刊行を予定しています。発売日・価格は未定です。) |
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