Kyoko Shimbun 2022.04.01 News

虚構の歴史が現代に根付くメカニズム 偽文書研究『椿井文書』著者に聞く これは嘘ニュースではありません

大阪大谷大学・馬部隆弘准教授が上梓した『椿井文書――日本最大級の偽文書』(中公新書)
 2020年3月、江戸時代後期の椿井政隆という人物が作った偽の家系図や絵図など「椿井文書」と呼ばれる一連の偽文書(ぎもんじょ)についてまとめた『椿井文書――日本最大級の偽文書』(中公新書)が出版され、話題を集めました。椿井文書の実体と、それを根拠に町おこしが行われている実態を明るみにした同書は「新書大賞2021」3位にも選出。歴史の嘘が真実へと置き換わっていくことについて、著者の大阪大谷大学・馬部隆弘准教授に話を聞きました。





「椿井文書」は山城国相楽郡椿井村(現在の京都府木津川市)出身の椿井政隆(1770~1837年)が、中世の地図や絵図、家系図と称して偽作した文書の総称。現在の滋賀県北部から京都南部、大阪まで数百点が広く流布した。代表的なものとして、興福寺(奈良県)の末寺をリストにまとめた「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」がある。



<名前を見ただけでむず痒くなりますね>


――「椿井文書」の研究を始めたきっかけを教えてください

 最初、研究するつもりはなかったんです。枚方市(大阪府)の職員だった頃、市内の津田という地域にある津田山を里山として整備するということになって、その展望台の説明板に、かつて津田山にあった津田城のことを書くために調べ始めたのがきっかけでした。

 僕も津田城があるものだと信じていたんですけど、ある段階で「縄張図もお城っぽくないし、津田城に関わる言説も、江戸の中期から出てくるけど、戦国時代までさかのぼれる文献がないし、おかしいな」と。

 ※縄張図…城の構造について示した図面

 一方で、津田山の所有権をめぐって、津田村は隣の穂谷村と裁判で争っていました。その穂谷村にはかつて氷室があったという伝説があったんですが、その氷室伝説を裏付ける史料が、椿井政隆の書いた偽文書だったんです。

 ※氷室…古代、冬場にできた氷を夏場にも使うため、地中や山中などに穴を開けて作った保管庫。穂谷地域の近くにはこの「伝説」に基づいた市立氷室小学校がある。

――そこで椿井文書に出会われたんですね

 はい。ただ、枚方の歴史を調べる仕事としては、一方で津田村が津田城に関する偽の由緒を作っていて、もう一方の穂谷村では椿井政隆の協力を得て氷室の偽文書を作っていたということさえ分かればいいわけで、それで終わりにするつもりでした。

 とは言え、椿井文書を面白いなと思ったのも事実で、その後も史料集を見ては、コピーを取るような感じで集めてはいました。そうするうちにだんだん慣れてきて、椿井文書がどんなものか、特徴が分かるようになってきたんです。


大阪大谷大学・馬部隆弘准教授

――椿井文書って一目見て分かるものなのですか

 素人でもパッと分かる点で言えば、例えば「興福寺」って中世は大和国(現在の奈良県)の守護的な立場にいるんですけど、とは言え、さすがに滋賀県にまで強い影響力を及ぼすわけがないんですよ。だから滋賀や大阪の文書なのに興福寺って出てきたらすぐ疑います。

 ※興福寺…奈良県奈良市にある法相宗の大本山。藤原氏の氏寺としても有名。

 どうして興福寺が出てくるのかと言うと、椿井政隆の頭の中では「椿井家は興福寺の侍として活動していた」という設定があるので、「今は縮まってしまったけど、かつて興福寺は近畿一円に影響力を持っていた」ということにしたいんです。滋賀県の彦根には「椿井の先祖が龍を倒した」と記した「己高山河合寺伽藍之絵図」っていう椿井文書があるんですけど、滋賀も興福寺の勢力圏ということにすれば、「ああ、椿井の者が龍を倒したこともあるだろう」と。

 そもそも椿井文書の「興福寺官務牒疏」という「牒疏」っていう史料名自体、他ではまず出てこないんですよ。だからそういう名前を見ただけでむず痒くなりますね。

――逆に専門家だから分かる、というところはありますか

 例えば、この書状(手紙)には「文明十二」(1480年)ってありますが、これもその時代の古文書の体(てい)を成した椿井文書です。


「興福寺前官務順盛」と「官務澄胤」の連署書状(大阪大谷大学図書館所蔵椿井文書)


 なぜこれが椿井文書だと分かるかというと、ひとつはさっき話したように、「河内国なのに興福寺」というところで、まず怪しいな、と。それと「普賢寺」っていう、椿井が力を入れた集落の名称も入っている。これだけ揃えば椿井文書だと言っていいでしょう。

 それに古文書学的に見てもおかしいんです。古文書学の基本ルールなんですけど、文末が「謹言(きんげん)」で終わるときは年号を書かずに月日しか書かないんです。逆に「如件(くだんのごとし)」で終わるときは年号が入る。ところが「謹言」で終わるこれには「文明十二」って書いてあります。あと「署名と花押は重なるように書く」っていうのもルールなんですが、これはちょっと離してあるんです。

 ※花押…署名の代わりに用いた一種の記号。

――確かに「順盛」「澄胤」の署名と、その下にある花押が重なってないですね……

 この書状に限らず椿井文書は全部意図的に離してあるんです。理由のひとつは、署名と花押が重なってしまうと、まさに謀書謀判(有印文書偽造)になりますけど、「花押が離れているから謀書謀判じゃない」という言い訳が立つからです。

 もうひとつ理由があって、椿井さんって花押を一個一個、それなりに自負を持ってデザインしてるんです。でも花押が署名と重なったら、せっかくのデザインが欠けてしまいますよね。この書状は手元に残す原本で、実際にはこの原本を元にした「写し」を人に渡すので、原本の花押が欠けていると、写しを作るときに都合が悪い。

――書状一枚からここまで読み取るなんて、まるで探偵小説みたいですね



<国学というのは妄想する学問なんです>



――椿井文書は素人が一見しただけでそうだとは分からないとは言え、馬部先生のような専門家の手にかかれば、あっけなく見抜けてしまうという意味では、そこまで真剣に騙そうとしていたようには見えません。政隆本人はどこまで本気で騙そうとしてたんでしょうか

 どうなんでしょう。そもそもこんなものを作ろうとする人って「半分冗談、半分本気」の人じゃないですか。真剣に歴史学をやろうという人はこんなことしないですよ。「こうだったらいいなあ」という妄想を楽しむ人が作る。他の偽書を作る人たちと向いているベクトルは一緒だと思いますけど、椿井さんはその熱量が全然違うっていうだけで。

――偽文書を作る人は当時たくさんいたんですか

 偽文書ではないですが、例えば、森幸安という平安京の地図や、大阪の膨大な絵図を作った人がいます。椿井さんより少し前の時代の人です。それらは森幸安が過去の姿を考証しながら描いた地図ですが、彼は自分が作ったことを偽装しないんです。それに対して、椿井さんは自分ではなく空想の人物が作ったことにしてしまう点が決定的な違いですね。

 ※森幸安(1701年~没年不詳)…京都出身の地図学者。約300枚に上るさまざまな地図を書いた。

――空想や妄想で偽文書を作っているということですか

 椿井政隆もそうですが、当時歴史を学んだ国学者って、レゴブロックで町を作るようなイメージで、そういう空想をやってるんです。本居宣長だって空想の城下町を作ったりしてますから。

 ※本居宣長(1730~1801年)…古典研究を通じて、日本固有の文化を究明する「国学」を大成した人物として知られる。19歳の時に空想の城下町を描いた「端原氏城下絵図」は国の重要文化財に指定されている。


本居宣長が描いた「端原氏城下絵図」(本居宣長記念館HPより)

――国学が政隆に与えた影響は大きいですか

 国学というのは妄想する学問なんですよ。もうちょっと言うとですね、過去の社会を理想とする学問なんですよ。だから「過去を復元してそれを真似すると良い世の中になる。そんな理想郷を復元的に描かないといけない」という発想になるんです。

 どうしてそんな発想になるのかと言うと、江戸中期になると享保の改革をはじめとして、度々改革がなされる。改革があるということは、世の中が乱れているということでもある。傾いた国家を立て直すにはどうしたらいいか。そこで、律令によって整然と支配できていた古代の立派な社会が理想なんだと、国学は考えるんです。

 ※享保の改革…江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が主導した一連の幕政改革。幕府の財政再建を主な目的とした。

――では、政隆を含め、偽文書を作る動機に国学の大きな影響があるということですか

 実際市中に出回るかは置いて、自分の家で偽文書を作るのは当たり前のことでした。江戸時代の庄屋クラスなら、歴史は教養として勉強しています。歴史を知っておかないと、津田山の所有権裁判のように、地元の利権の由来が説明できないし、庄屋という仕事が成り立たないというところがあるんです。

 江戸後期の歴史学といえば国学でした。そうして、歴史をそこそこ学んでしまうと、今度は「わが家はこういう家だから庄屋をしているんだ」という記録を作りたくなるのも、当然人情として出てくる。そこから派生して、先祖が歴史上の有名人からもらった手紙っぽいものを自分で作るっていうのは当たり前のようにやっていました。

 河内で文書整理していると、そういう経緯でできた家系図とか楠木正成由来とかの偽文書は、いくらでも出てきます。ただ、それを人に見せて自慢するとか、そういうつもりはない、あくまで「遊び」なんです。

 ※楠木正成(1294~1336年)…鎌倉末・南北朝時代の武将。南河内で挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権を支えたが、1336年、湊川の戦いで足利尊氏軍に敗れて自刃。戦前は天皇の忠臣「大楠公」として英雄視されていた。



<近畿で信長に焼かれた神社の大半は嘘です>



 枚方市のある家の偽文書で面白かったのは、どうやら線香を使って虫食い穴を偽装してるんです。でも線香で穴を開けるから、縁の部分にお焦げが残ってるんですよね。お焦げくらいきれいに払っときゃいいのに。

 あと、近畿地方の神社では「今は新しい社殿だけども、実は古い神社だ」と言いたいときに「昔の古い社殿は織田信長によって焼かれた」って主張することがよくみられますね。

――信長に濡れ衣を着せるんですか

 豊臣秀吉は大阪で人気があるから「秀吉に焼かれた」とは言えない。徳川家康は当時「神」なので、名前を使うと罪になるんですよ。だから危険で使えない。けれども信長だったら、織田家はメインの血筋は滅んでるし、各地で暴れ回った印象もあるし、それっぽい話になる。で、どこの神社も同じことを考えるから、近畿で信長に焼かれた神社の大半は嘘です。椿井文書でもよく使われる話ですね。


織田信長(Wikipediaより)

――便利ですね、信長

 便利と言うより、人が考えそうなことってみんな共通してくるんですよ。「神社がなくなった」→「焼かれたとしたら誰がいいか」→「信長」と。これが信濃(現在の長野県)だったら、甲斐(現在の山梨県)から進出してきた武田氏のせいにすれば、武田は滅んでいるから使える。

 結局、誰しも頭の中で考える「ありそうな歴史」を最後に偽文書として仕上げるかどうかが違いで、それを大規模で実物にしたのが椿井政隆なんです。

――では、椿井文書が他の偽文書と違うポイントはどこだとお考えですか

 さっきのレゴブロックで作った町の例えだと、「こっちの家とこっちの家は友達関係だ」とか、個別のものをできるだけリアルに結びつけて世界観を作り上げていく。同じように椿井文書もそれぞれの文書を関連させながら世界を築き上げていくんです。

――そうやって作った偽文書を政隆はあちこち売り歩いていたんでしょうか

 椿井さんは地主でお金に困っているわけじゃないはずなので、売って儲けると言うより、受け入れられたい願望の方かなと思います。

 と言うのも、若い頃の椿井政隆は歴史学者なんです。住んでいたのは南山城のままのようなんですけど、30代半ばまでは膳所(ぜぜ。今の滋賀県大津市)で国学を勉強していたようです。ただ、歴史学者としての椿井政隆が書いた本は、どうしようもない本なんですよ。他人の本を丸パクリしてちょっと付け加えたくらいの。

 その後、椿井政隆は30代半ばを境に偽文書を作り始めます。おそらく最初の依頼主は今の滋賀県栗東市にある金勝寺です。初期の椿井文書は金勝寺を巨大に描こうとする意思が明らかに見えるので。歴史学者として鳴かず飛ばずだったけど、要望に応じて偽物を作ったら、ことのほか喜ばれたんで、「これで受け入れられるんだ」と思ったんじゃないでしょうか。

――著書『椿井文書』の中では「悪意というよりも、遊び心をもって自己満足のために作成する椿井政隆の姿が浮かび上がってくる」とお書きになってますね。先生は椿井文書のどの部分に「遊び心」があると感じられますか。

 何かあった時の言い訳という側面もあるんでしょうけど、どれを見ても遊んでるところが何か所かあります。

 例えば文化元年(1804年)に、今の大津市で龍の骨(※実際はナウマンゾウの化石)が見つかるという騒ぎがあって、いろんな人が描いたその骨の絵の写しが大量にあるんですけど、椿井政隆は写した絵に「これは椿井の祖先が退治した龍だ」って入れちゃうんですよ。遊び心ですよね。

 ただ、椿井さんの場合は本気と遊び心の線引きができないところがあって、「蝦夷国輿地全図」っていう蝦夷地(北海道)の絵図にも、「かつて私が蝦夷を探検した時」とかいう話が書いてあって、「これ、どこまで本気にして良いのか」ってなるんですよ。絶対に行ってないのに。



<正しい現物の古文書をほとんど見たことがない研究者だっているわけですよ>



――ここまでお話を聞いていると、政隆自身「本気で世間を欺いてやろう」という悪意は感じられないように思います。ただ、その意図にもかかわらず、彼の残した偽文書を根拠とした「偽の史実」が定着してしまった地域もあるようです。どうしてそんなことになっているのでしょう

 例えば、中世の寺院に関する史料があって、研究者が「この史料は江戸時代の写しかもしれないが、『中世は立派な寺院だった』という伝承が江戸時代にはあったのだろう」と自治体史に書いてしまったら、今度はそれを元に町内会誌の編集者が「中世には立派な寺院がありました」と、事実のように書いてしまう。

 研究者は史料を100%鵜呑みにしてなくて、50%くらい呑んでる感じだから、自治体史では「あったのだろう」と微妙な言葉でごまかしているんですが、それを読んだ人はそれを100%の史実として受け止めてしまう。


――まるで伝言ゲームのようですね……

 椿井文書には史料が抜けている部分を補う内容のものも多くて、研究者側としても「そうであったら」と思うことを書いているんです。中世にはきっと栄えていたであろうお寺に関して、椿井政隆が「栄えていた」と書くわけだから、ちょうどいいんですよ。研究者の願望を叶えている部分がある。

――とは言え、馬部先生のように研究者・専門家として、それが椿井文書であることを指摘できなかったのでしょうか

 専門家と言っても、ピンキリなので。中には、正しい現物の古文書をほとんど見たことがない研究者だっているわけですよ。

――えっ、それは意外です

 古代、中世は資料がだいたい活字化されているから、現物を読む必要がない分野って結構あるんですよ。大学1年の時に歴史学科に入ったものの、くずし字の授業でくずし字が読めないから、古代を専攻する、あるいは逆に、活字時代の近代を専攻するって人は、意外と多いんです。で、良い大学に入ってる学生は優秀なんですけど、くずし字を読まないまま良い論文を書いて立派な研究者になっていくから、実はこういうのを見破れない人は結構います。

 基本的にくずし字を読むのは近世専攻だけなんです。近世は古文書が大量にあるから、くずし字が読めないと論文の書きようもないんです。「古文書は手袋を使わず素手で触る」とか意外に知られてないんですけど、そうやって毎日当たり前のように古文書を触っていたから、現物を見ないと気が済まないアタマなんですよね、近世の研究者というのは。

 けれど、中世の研究者は活字を見て「うん、これで十分」となってしまう。椿井文書は中世史料として活字にされているから、みんなそのまま使っちゃうわけですよね。だから偽文書独特のにおいが薄まっちゃって分からない。


大阪大谷大学が収集する椿井文書の一部

 僕は中世が専門ですが、学生の最初の頃は近世が専門で、史料は現物や写真に当たるのが当たり前という感覚があったので、椿井文書もできるだけ写真に当たりました。だから気付きやすい環境にいたんでしょうね。中世どっぷりだったら、たぶん何歳になっても椿井文書だということに気付かなかったと思います。



<結局、一度使ってしまったら否定できないんです>



――『椿井文書』では、大阪府枚方市の「アテルイの首塚」や「王仁墓」、滋賀県米原市の「七夕伝説」など、偽文書を元にした町おこし、郷土教育を問題視されていました。出版して何か状況は変わりましたか

 出版した年の夏、「アテルイの首塚」についてMBS(大阪毎日放送)の取材があったときに、新書にも引用している「王仁墓」について書いた枚方市のウェブページが消えました。流石にまずいと思ったんでしょうね。枚方市の職員時代、「消せ、消せ」って、何年間もずっと広報に言い続けても全然消えなかったのに、MBSがちょっと動いただけで消えたので、何とも言えない気持ちになりました。

 ※アテルイ…蝦夷の首長。河内国で処刑されたとされるが、その処刑地は特定されていない。
 ※王仁(わに)…第15代応神天皇の時代、百済から日本に千字文と論語を伝えたとされる伝承上の人物。


――サイトから消えた「王仁墓」も、地元で昔から「おに墓」って呼ばれていた自然石と音の響きが似ているっていうだけの根拠でしたよね


椿井文書「王仁墳廟来朝紀」に触れた「王仁墓」のページはなくなったが、史跡としては紹介されている
枚方市HP「枚方市内の文化財」より)


 いえ、王仁墓は昭和13年に大阪府の史跡に指定されましたが、指定の根拠として使われた資料には「水戸黄門が王仁墓にやってきた」っていうのもあって。

――えっ、時代劇でお馴染みの水戸黄門ですか

 「水戸黄門の諸国漫遊」はいわゆる講談話で、絶対そんな事ないんですけどね。戦前の史跡指定なんてそんなもんで、だから楠木正成に関する史跡もいっぱいあるわけですよ。まあ王仁墓はもうどうしようもないですね。

――米原市の七夕伝説はどうなりましたか

 ※米原市の七夕伝説…1987年に発見された、天正15年の古文書「世継神社縁起之事」に、市内の世継神社(現・蛭子神社)の由来として織姫と彦星のモチーフになる出来事が書かれていた。このことから地元では、この七夕伝説に基づいた町おこし「七夕まつり」や郷土教育が行われてきたが、馬部准教授の研究によって「世継神社縁起之事」が椿井文書であると判明した。経緯はヤフーニュース特集「嘘でつくられた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書」に困惑する人たち」に詳しい。

 出版後、地元の小学生に配る歴史年表に「椿井政隆」の名前を入れるようになったそうですが、七夕伝説は総合学習で相変わらず教えているようです。小学生は七夕伝説が古くからあったと思い込むだけですよね。「七夕伝説は椿井政隆が捏造したものですよ」と教えるのであれば伝わるでしょうけど。そもそも大人が勝手に盛り上がるぶんには構いませんが、義務教育に取り込むのは問題ですよね。

――確かに、小学生からすれば「椿井政隆って誰だ」にしかならないですよね

 結局、一度使ってしまったら、それを使ってしまった言い訳ばかり考えて、否定ができないんですよ。嘘を定着させてしまった自分の人生を否定してしまうことになるので。

――根が深いですね……

 いえ、要は受け取り方の問題なんです。「あの有名な椿井政隆がうちに来てくれた」って言えばいいんですよ。悪い人じゃないじゃないですか、椿井さんって。「あの椿井が来てうちの歴史を作ってくれたんだ、ありがとう」でいいんですよ。


米原市の七夕伝説はマスコミも取り上げた
2015年7月8日付「産経新聞」より)




<歴史学者が行政に一人もいないと、全国で椿井文書現象が>



――「自分にとって心地よければ嘘でもいい」というポスト真実な感じは、今のフェイクニュース的な側面もありますね。フェイクニュースと言えば、その対策として「ファクトチェック」という動きも出てきています。ファクトチェックを行うNGO「インファクト」の代表で、ジャーナリストの立岩陽一郎さんは「ファクトチェッカーには誰でもなれる」とおっしゃっていますが、歴史学に関しても同じことが言えるでしょうか

 まあ無理ですよね。普通の人に古文書の分析はできないので。だから、少なくとも歴史学者を1人、行政に置くことが必要だと思うんです。その人に「これは嘘ですか、本当ですか」と聞きに行けばいい。

 米原の七夕伝説も、大学院くらい出ている歴史学者がいてちゃんと聞いていれば、文献をめくって「ああ、これは江戸後期に初めて出てくる資料で、よく見たら椿井政隆が書いた椿井文書ですよ」ってレファレンス(調査、参照による回答)くらいできたんですよ。

――行政側に対応できる仕組みがあればいい、と

 考古学はそれを実現してるんです。文化財保護法には「開発によって埋蔵文化財に影響を及ぼす場合は教育委員会に届け出ないといけない、やむをえず破壊する場合は開発者の負担で記録を取らないといけない」と盛り込んであります。よほどの大企業でない限り考古学者を雇うのは難しいので、発掘費用を支払って教育委員会に勤務する考古学者が記録する仕事を請け負うわけです。

 だから、文献史学も同じように「歴史学者が行政に一人もいないと、全国で椿井文書現象が起こってしまいますよ」と警鐘を鳴らしてシステム作りをすればいい。そうすれば、市民自身が歴史のファクトチェックをできなくても、市役所に行けば誰でもできる。そんな社会ができればいいと僕は思っています。

――まだそこまでの体制は整ってないですか

 整っていないですし、市民の側も市役所に聞きにいけばいいという世の中になってないんです。例えば、ヨーロッパにはどの町にも公文書館(こうぶんしょかん)っていうのがあって、そこに行けばその町の歴史が調べられるし、そこにいるアーキビストから「こんな文献ありますよ」っていうのが聞けるんです。

 ※アーキビスト…保存価値のあるさまざまな情報を査定、収集、整理、保存、管理し閲覧できるよう整える専門職。

 けれども、日本で地元の歴史を調べようと思ったら、博物館がある町ならそこに学芸員がいるって分かるでしょうけど、博物館がない町ならどこにいけばいいか分からないですよね。

 なのに、町内会誌を作ることになったら「わが町あれこれ」みたいなことは、意外とみんな書くんです。そこで歴史的に怪しいことを書いてしまうと、結果、町内に嘘の歴史が広まるんですけど、その前に教育委員会に持ち込んで一読してもらうのが当たり前の社会になれば、そういうことはなくなっていくはずなんです。

――怪しげな歴史が広まらないよう、撲滅を目指す感じですか

 いえ、怪しいものは怪しいもので、おもしろおかしくやるのはいいと思うんです。それは否定しないです。だから僕は椿井文書で盛り上がればいいって言ってるんですけど、怪しいものをさも正しい歴史かのように紹介してしまった人は、引くに引けないのでまた誰かを引っかけて騙してしまう。町内会誌を編集する人は引っかかっちゃダメな人なのに、みんなそろって騙されてしまったら、もう後に引けなくなっちゃうじゃないですか。結果、みんな不幸になるんですよね。

――文献がくずし字から活字、そしてデジタルデータへと移る中で、現代の私たちが作る、空想やフィクション、ジョークが、椿井文書のように後世、史実として定着してしまうことはあるでしょうか

 あると思いますけども、もしそれが歴史学の対象になるような重要な出来事であれば、後世の歴史学者が分析して正しますよね。ただ、僕らも論文で書く価値のあるものなら正していきますけども、何もかも研究できるわけじゃないので、出回ってるけど放置してるようなデマは現状でもあふれかえってると考えたほうがいいのかなと。

――では、歴史家の検証から漏れるデマは放っておくしかないんでしょうか

 ほんわかした昔話ではなく、各地に残る史実っぽい民話なんかは手の届きようがないですよね。僕らもそういう怪しい話を否定するためではなく、何か歴史像を描くために研究をしています。米原の七夕伝説も、椿井文書の実態を描くため、たまたまそこにあったから触れたのであって、七夕伝説を消してやろうと思って書いたわけではありません。枚方のほうの七夕伝説はごく最近になって創作されたものですし、職責だと思っていたので(笑)。



<やだなあ、本当は戦国時代の研究者なんだけどなあ>



――今後も椿井文書の研究は続けられるんでしょうか

 来ていただいて申し訳ないんですけど、椿井文書のことは少し飽きてきてて、世間が「椿井文書の研究者」として見るから、「やだなあ、本当は戦国時代の研究者なんだけどなあ」と思って論文を書いてたら、去年だけで10本以上書いてました。こうしてインタビュー受けるたびに、椿井文書の話をするんですけど、本当は専門の戦国時代のことがやりたくてやりたくて。

――何かすいません……

 さすがに15年も研究をやってると「椿井文書と言えば馬部が研究するものだ」と定着しちゃってますが、僕は一歩引いて、各地の椿井文書は各地域の責任、各地の学芸員の責任で研究する方向に持っていかないといけないと思っています。まあそれを口実に戦国の研究に専念できるってこともあるんですけど。

 ところでちょっと提案なんですけど、うちの大阪大谷大学で何か嘘ニュース書けませんか?


大阪大谷大学・大学院(大阪府富田林市)

――えっ

 「大阪大谷大学、歴史文化学科を偽史文化学科に改組」とか。うち、結構乗りの良い学科なんで。

――先生、何かちょっと椿井政隆みたいなこと言ってますよ…?

 椿井さんが偽文書を作りそうな場所に行くと、案の定そこで作っていたり、初めて目にした椿井文書でも何を目的に偽装したのかがすぐに分かったり、椿井文書の研究を続けると、椿井さんの考えていることがもう手に取るようにわかってくるようになって、一体化するんですよ。

――イタコみたいに憑依(ひょうい)が始まってるじゃないですか

 本当にそうですよ

――椿井政隆自身は、謎多き人物のようですが、実際どんな人だったんでしょう

 多分僕みたいな人間ですよ。表向きはちゃんとした研究者にみられながらも、中身はかなりふざけてるっていう(笑)

――ありがとうございました

(※今日4月1日はエイプリルフールです。)





馬部隆弘(ばべ・たかひろ)
 1976年、兵庫県生まれ。1999年、熊本大学文学部卒業。2007年、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。枚方市教育委員会、長岡京市教育委員会を経て、現在、大阪大谷大学文学部准教授。専攻は日本中世史・近世史。
 著書に『楠葉台場跡(史料編)』(財団法人枚方市文化財研究調査会・枚方市教育委員会,2010年)、『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館,2018年)、『由緒・偽文書と地域社会――北河内を中心に』(勉誠出版,2019年)ほか。



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<BOOK>椿井文書―日本最大級の偽文書

 中世の地図、失われた大伽藍や城の絵図、合戦に参陣した武将のリスト、家系図…。これらは貴重な史料であり、学校教材や市町村史にも活用されてきた。しかし、もしそれが後世の偽文書だったら?しかも、たった一人の人物によって創られたものだとしたら―。椿井政隆(一七七〇~一八三七)が創り、近畿一円に流布し、現在も影響を与え続ける数百点にも及ぶ偽文書。その全貌に迫る衝撃の一冊。

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